久石譲のフューチャー・オーケストラ・クラシックスの演奏会の記録を書いていきます。
指揮者 久石譲
久石譲は皆様ご存知の通りですね。宮崎駿監督のスタジオジブリ作品の音楽を担当した作曲家であり、日本に留まらず、世界中でその音楽が聴かれています。
その久石氏は、2004年に立ち上げた新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラで、自作曲などを指揮する演奏会を全国で開催するなど、近年は指揮者としての活動が注目を集めるようになっています。
その中でフューチャー・オーケストラ・クラシックスは、クラシックを作曲家視点で再解釈し、新たな魅力を発掘して伝えることを目的に設立されたようです。メンバーにはNHK交響楽団をはじめ日本のトップクラスのオーケストラの奏者が名を連らねており、何か新しいことを生み出そうとする野心と意気込みが感じられます。
これまでに、2016年からベートーヴェンの交響曲全曲録音を実施した他、2019年にはベートーヴェンの5番と7番の演奏会を開催、2020年からはブラームスの交響曲全曲を取り上げる演奏会シリーズが始まっていました。(新型コロナウィルスの影響で、ブラームスの2番以降の演奏会は一時中断)
著者はその中で、ベートーヴェンの交響曲第5番、7番と、ブラームスの1番の演奏会に参加しましたので、その感想を共有します。
立奏スタイルのオーケストラ
フューチャー・オーケストラ・クラシックスという団体は元々存じ上げなかったのですが、昨今話題のムジカエテルナのような立奏スタイルでした。チェロ以外の弦楽器と、管楽器も全員立っています。
そもそも立奏スタイルのオーケストラの演奏会がはじめてで、様々発見がありました。最も印象的だったのは、楽器感のコミュニケーションが取りやすようで、アンサンブルが上手くいきやすそうだったことです。
オーケストラのコミュニケーション
オーケストラというと、指揮者が出した指示をオーケストラが受け取るという、one way なものというイメージがあるかもしれませんが、実態は大きく異なります。
まず、指揮者とオーケストラは相互にやりとりします。また奏者同士も、同じ楽器の人に留まらず、他の楽器の奏者とも頻繁にコミュニケーションします。バイオリン奏者がビオラ奏者と意思疎通したり、チェロ奏者がホルンや木管の音を聴きながら自分の音をうまく溶け合わせたりします。ただ合わせるだけではなく、主張もするし、駆け引きもします。
100人近くも奏者のいるオーケストラの中で、まさに蜘蛛の巣のように、ネットワーク網がびっしりと張り巡らされているのです。そして、各個人が発信と受信を繰り広げながら、一つの統一された世界観を構築していくという、まさに奇跡的な現象がそこにはあるのです。オーケストラのコミュニケーションは、非常に有機的なのです。
フューチャー・オーケストラ・クラシックス
そんなネットワーク全開のオーケストラですが、通常は座って演奏することが多く、例えば後ろに座っている奏者と音を合わせるにしても、振り返りながら演奏するのは容易ではありません。
しかし立奏スタイルを採用するフューチャー・オーケストラ・クラシックスでは、各奏者がそれぞれ向きを変えながらどんどん主体的にコミュニケーションを取っていました。奏者の発信能力と受信能力が高い前提ですが、立奏スタイルによるオーケストラコミュニケーションの向上の可能性を大いに感じました。印象的だったのは、内声パート、特にビオラ奏者の自発性です。ビオラ奏者というのは、同じような形のバイオリンと比べると幼少期から英才教育される人口も少なく、またバイオリン奏者を諦めて移籍してくる奏者が多いこともあって、しばしばイジられたり、自虐を言ったりすることが多いです。インターネットで調べてもらえれば、自虐ネタの数々が出てきます。
そんな事情もあり、どちらというと受け身なビオラ奏者が多い中で、フューチャー・オーケストラ・クラシックスのビオラ奏者はとても印象的でした。
ベートーヴェン = ロック
さて、そろそろ演奏の中身について触れたいのですが、その前にまず、ベートーヴェンについて書きます。
久石氏が、ベートーヴェンはロックであると言っているのをどこかで読みました。これに私は強く共感します。ベートーヴェンは今でこそクラシックコンサートで最も演奏機会の多い定番の作曲家で、運命や歓喜の歌など、誰でも知っている曲が多いです。またベートーヴェン以降の作曲家を多く知っている現代人からすると、その和声や楽曲形式はまさに”クラシック”と感じてしまうかもしれません。
しかし、実際にはベートーヴェンは当時としては相当アバンギャルドな作品を作っていたわけだし、その精神性は”革命”とか”革新”と言う言葉で表現できるものです。
一方で、演奏会で聴くベートーヴェンの作品に、そういった精神性を感じないことが多いです。昔の演奏ほどその傾向は顕著です。
古い演奏慣習を超えて
個人的にこれは、作品ではなく演奏慣習に原因があると考えています。ベートーヴェンの作品は今から200年以上も前に書かれました。楽譜や資料が充実している20世紀前後の作曲家と比べると、ベートーヴェンの意図がわかる資料が残っていないことも多い。
そうすると、過去からの演奏習慣が引き継がれてしまいます。例えば指揮者としてのリヒャルト・ワーグナーが第5番の冒頭をまるでアダージョのようなゆったりとした重いテンポで演奏し、その後その演奏方法が慣習化したように。
そういった状況で、主に20世紀中頃以降、ベートーヴェンに関する研究が進み、少しずつベートーヴェンが意図した音楽を再現する取り組みが各所で盛り上がっています。
例えば第5番の冒頭は、ゲーテがコンサートホールの倒壊を心配するほどの圧倒的なエネルギーの爆発の箇所です。テンポは演奏できるかどうかの瀬戸際の高速で、常に緊張の糸が張り巡らされている。それが、本来のベートーヴェンなのです。
ベートーヴェン交響曲第5番・7番
ようやくフューチャー・オーケストラ・クラシックスについてです。私は2019年の夏にベートーヴェンの5番と7番の演奏会に参加しました。
その演奏はまさに、ベートーヴェンの意図がそこに現れているかのような、世界を変えるような革命の意思を感じる演奏でした。加えて、久石氏がアーティキレーションやフレージングを細かく見直し、”惰性”で演奏する箇所を一切排除しているようにも感じました。
非常に新鮮で、まさにオーケストラの設立目的をそのまま体現しているような演奏で、オーケストラのアンサンブルもうまくいっており、とても面白い時間を過ごすことができました。
ブラームス交響曲第1番
ベートーヴェンの演奏会に参加した約半年後、2020年に入ってから、次は久石氏の自作曲とブラームス1番の演奏会に参加しました。自作曲も面白かったのですが、このブログの趣旨に合わせるために、Brahmsについてのみ記述します。
結論から言えば、ブラームスの演奏には、心が動きませんでした。
ベートーヴェンの時には新しい視点からのアプローチがこれまで埋もれていたベートーヴェンの意思を発掘しようとするのに一役買っていました。ブラームスにも同じアプローチを適用したように感じましたが、それが逆効果になったというのが私見です。
確かにブラームスの音楽にも新たな一面を探そうという意図は感じましたが、それよりも、ブラームスが20年悩み抜いて完成させた曲の重みが全く感じられなかったことの方が、強く印象に残ってしまいました。
また、オーケストラのアンサンブルもうまくいっておらず、しばしば指揮者の要求する速いテンポと奏者のテンポ感のずれが感じられ、チグハグな、何とも身に染みない演奏でした。
もしかしたら、私の好きなブラームスの2番以降の交響曲ではまた違った一面が感じられるのかもしれませんので、また次回以降、機会があれば参加してみます。
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